確かな「看護の力」を信じて真っすぐに歩み続けてきたQ まずは、皆さんが看護師を志したきっかけを教えてください。佐藤(く) 私の母は看護師なので、幼い頃から看護の仕事は身近な存在で、自然と同じ道を歩んでいた気がします。 看護師の力をあらためて実感したのは、祖母が入院したときのことでした。乳がんの全摘出を勧められていたものの、不安が強く手術に踏み出せなかった祖母。しかし、その病院の看護師さんからの声掛けをきっかけに、勇気を出すことができたのです。患者さんの思いを受け止めつつ、人生を左右するような大きな決断を支援する姿に憧れ、一層看護への思いが強くなりました。社地 父方の祖父が亡くなったとき、家族や親戚は「穏やかな顔をしているね」と話していましたが、私はショックからそのように思えないという経験をしました。このときから、自分もめざしたいと考えました。Q 志高く看護学部に進学した皆さんですが、就職活動についてはいつごろ、どんなことからスタートしましたか?社地 公衆衛生関連の講義を通して、人生においては入院中より地域で暮らす期間の方がはるかに長く、退院は地域生活のスタートだと学びました。住み慣れた場所での生活を継続的に支援したいと思い、保健師をめざすことにしました。就職活動としては、3年生の8月ごろから保健師の仕事内容や就職先について調べ始め、公務員試験対策のため予備校にも通い始めました。また、キャリアセンター主催のガイダンスに参加してマイナビ提供の自己分析ワークシートに取り組んだり、第2の選択肢として病院の候補も探したりしました。佐藤(く) 私も3年生の夏ごろから就職活動を始め、自己分析から取り組みました。社地さんと同じガイダンスに参加したほか、さまざまなウェブサイトで紹介されているツールで自己分析に着手。自分の看護観がはっきりするにつれて、病院選びの軸が少しずつ固まっていった気がします。 また、3年生のうちから、マイナビ主催の合同説明会などにも参加するようにしていま命に向き合い、救えるような仕事に就きたいと考え始めたのです。 また、母方の祖父が入院した際、当初は消極的だったリハビリテーションへの気持ちが、徐々に前向きになっていったように感じました。「看護師さんに励まされたから頑張れたんだよ」という祖父の話を聞き、人の生きる力になれる看護師という職業に憧れるようになりました。佐藤(千) 「誰かを守れる存在になりたい」という思いが強く、以前は警察官を志していました。しかし高校生の時点で、当時提示されていた身長の基準に届かず、夢半ばで断念。同じくらいの熱量で取り組める仕事を考えたとき、頭に浮かんだのが看護師でした。 小学生の頃、友達のお母さんが看護師として働いていて「命を扱う、尊くて素晴らしい仕事だよ」と教えてもらったことが心に残っていたのです。看護の仕事の素晴らしさと重大な責任にやりがいを見出し、した。何度か足を運び、行きたい病院が絞られていたので、志望度が高いところの説明会や病院見学には複数回行くことができました。佐藤(千) 私は2人より少し遅めで、4年生4月からのスタートです。というのも、すでに働きたい病院の目星が付いていたから。私は東京のある繁華街で育ったのですが、地元愛がとても強いのです。特殊な事情を抱えている人々も少なくない街で、外国の方や障がいを抱えている方と接することも子ども時代から多くありました。そうした自分の経験があるからこそ、地元の病院で力を発揮したいと考えていたのです。 ただ、しっかりと比較検討する必要はあると思い、合同説明会にも参加しておきました。多忙な日々を乗り越えてたどり着いた運命の志望先Q 学校生活と就職活動の両立は大変だったと思います。皆さんの場合、どうやって乗り越えましたか?佐藤(千) 養護教諭の教育実習準備と在宅看護の実習、そして就職活動が重なってしまう期間があり、非常に大変でした。当然、どれも手を抜けるものではないので、とにかくスケジュールを効率的に詰め子ども好きだったことから、学童のスタッフとしてアルバイトをしている。一緒に遊んだりするほか、安全管理も大切な業務の一つ。佐藤くれあさん さとう・くれあ武蔵野大学 看護学部 看護学科大学病院内定アルバイトは地元の中学校でのスクールスタッフ。教室へ行くのがつらい子、勉強についていくのが難しい子などの支援に携わってきた。佐藤千乃 さん さとう・ちの武蔵野大学 看護学部 看護学科都立病院内定父の影響でロードバイクが趣味の一つに。地元の茨城県で、霞ヶ浦のサイクリングロードなどを走るのがリフレッシュになっている。社地美都 さん しゃち・みさと武蔵野大学 看護学部 看護学科地方自治体(保健師)内定「その人らしい生活」のため伴走できる看護師にKurea Sato49
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